願わくば 花の咲く程 知り死なむ。

我々は生きている内に一体どれだけの美味しいものを食べておいしかったといい、本や映画を鑑賞していい作品だったと言えるでしょう。おそらく何十年もの間に数え切れないほどそういった感動があるに違いありません。

しかし春の風物詩ともいえる桜を見る回数はいかがでしょう。長い長い365日の中でもほんの1週間ほどしか見ることはできません。一年に一度という考え方をするならば成人となった私たちの人生の中で桜を見る回数というのはもう80回もないのです。

これはたかが20余年しか生きていない人間がこの桜を超える樹はそうそう見られないだろうな、と思ったある桜の樹のことを綴った文章です。我々には幼いころからなじみ深い樹木となっている桜の魅力やその意義を改めて見直すきっかけとなった備忘録でもあります。

とある田舎の林道。軽自動車でもちょっと厳しい幅の狭い林道を延々数キロ走ります。対向車よ来ないでくれ~と心の中で念じつつ、舗装されていない道を轍に沿って走ります。浮いた石を踏まないようにトロトロ進んでいると鳥居が見えてきました。

古びた神社ですが手入れはされている様子。近くにあった誰の何のかもわからない謎の家系図もよくもまあ雨ざらしで綺麗な状態であるものだとのんきなことをその時は思っていました。

奥に現れた見事な一本桜。思わず息を飲みました。冬の終わりでなお常緑の木々に囲まれて、薄桃色の花々が青空と溶けるかのように咲き誇っておりました。

辺りには人っ子一人おらず、聞こえるのは熱を帯びたエンジンが冷え始める音と花弁をわずかに散らす風と鳥の声だけ。一本の桜と一人の人間が対峙していると痛感させられる静かな音が響いております。

頭上を覆う一面ピンク色の海の下で花見を楽しむ桜を動とするならば、誰の歓声を聞くわけでもなく、何の雑音を見るわけでもない静の桜。皆でワイワイ楽しむ前者が嫌いなことはないですが、ここまでに来る道のりの困難や、周りに誰も居ない環境が加味されてただ一つの樹を眺めて詠嘆するのにふさわしい状況があったのです。

日本各地に有名な一本桜は多くあります。が、家族連れや観光客。三脚を建てて撮影するおじさま方が取り囲む時期に見に行ってこの桜と同じ感動が味わえるかどうか。

斜面に立つその堂々たる姿。いくら写真に撮っても、こんな文章にしてもこの時の感動を収めることはできません。幹に近づいてみたり、斜面の下で見上げてみたり、なんだかんだ二時間ぐらい眺めていた気がします。

後に調べてみると樹齢は800年とのこと。800年…気が遠くなる年月です。実感できないような月日がこうして目の前で実体化して樹木として花を咲かせているというのも不思議なものです。きっと大切に管理されてきた人々がいるのだと思います。最初に見た家系図もここにきてようやく意味が分かりました。

帰り際にて。きれいな自動車が止まり、人の気配がする建屋が一つありました。ここで生活するにしてもも通うにしても相当な苦労があるのだと思われます。管理されているのかどうかは分かりませんが…

眼下にはもう人の住まなくなった廃村がぽつんと。きっとあの集落は今年の夏にもあらゆる草に木々に埋もれ見えなくなってしまうのだと思いました。

800年を前にしてたかがあと80年の人生を見つめます。今後の人生でどれだけああ、綺麗だと言える桜が見られることでしょう。おいしいステーキや心震わす小説に出会う機会はいくらでもある気がしますが、どう頑張ったって一年はあと80回しかないのですから。