舗装されているのだかされていないのだかよくわからない道を延々数キロ。住む人のいなくなった廃村を訪れていました。集落のしょっぱなから崩れかけた廃屋が建っていてここが廃村であるということを思い知らされます。
手入れをほどこせば修繕をすればまだまだ住めそうな家屋。
それでも人の気配はありません。ここに来るまでの苦労を思えば道理でありましょう。
集落の上の方へ。崩れかけた木造家屋が去年の夏に絞め殺された植物を纏って朽ちていってます。
さらに上へ。満開の桜が呼んでいる気がしましたので、つられて荒れた歩道をえっちらおっちら登ります。
いかに里に人が居無くなろうとも関係なく、植物の己が儘に咲き誇っていました。
人の住まなくなった建物となお繁栄を続ける草木との対比がなんとも哀愁をそそります。満開の時期に訪れることができて本当に良かったと思いました。
今はまだ形を保っている家々。何年後か何十年後かは分かりませんがいずれ土に埋もれてここに村があったことも分からなくなってしまうのでしょう。それがなんとも悲しいのです。
金属板に覆われた茅葺屋根。
この集落の全体像。電線が通っているところとか、人工的な構造物とか。かつては人が住んでいたことがありありと想像させられます。木材となった木は土に還っていくばかりですが地に咲く花や樹木のなんと強いことでしょう。
自分がシャッターを切る音をやめれば、辺りは風の鳴る音と鳥の鳴き声と、水のさらさらと流れる音だけが聞こえます。とても静かな里でした。
そして集落の真ん中にはお地蔵様が一体。見守るかはたまた達観しているかのように寂しげに佇んでいました。
傍には菜の花、見る限り最近供えられたもののようです。こんな廃村にも訪れる人がいようとは、この花を見なければ気づきませんでした。いかに寂れて家屋が崩れた廃村といえども供えてくれる人さえいれば決して忘れられた里ではありませんし、住む人がいなくとも廃村ではないのかもしれません。
遠く枯れるだけの廃村であると思っていたことを恥じ、私もそこに生えていたスミレを供えてその村を後にしました。