かつての能登のことノート。

この街へ来たのは2022年10月。私にしては珍しく、友人達3人と旅行の過程として訪れた時のことでした。

前日は能登半島の東側にある七尾の温泉街に宿をとり、この日はレンタカーでわいわいおしゃべりしながらドライブをしておりました。

昨日までのどんより雲はどこへやら。スカッと晴れた青空は日本海側のイメージを大きく変えられたのをよく覚えている日のことでした。

どんな友人達ともそうですが、旅程を決めるのは大抵私の仕事。特段名乗りを上げたわけでも任されているわけでもないのですが、皆予定を立てるということに対して腰が重い人たちが多いのです。

ですから、半ばしぶしぶ、それでも得意分野だからちょっと意気込んで。全員が楽しめるような旅程を組んでいます。一人では行かないような水族館なんかも喜んでくれたみたいで。

そうやって旅程を組むために行きたいところの意見を聞いているとじゃああんたはどこに行きたいの、と不意にふられることもあります。でも私の趣味全振りの所に連れていくのもなんだか申し訳ない。

希望が反映されているように受け取られて、且つ皆が辟易しないような無難な観光地として、急遽この歴史的な街並みが有名らしい地区をグーグルマップから見つけ出し、訪れることにしたのです。

親切な無料の駐車場にレンタカーを停め、四人でその町を漫ろ歩きます。やっぱりそういう地区だけあって、路地裏や建物の雰囲気は抜群です。

丘の上にお寺があるというのでそこまで登ってみようということになりました。

高いところに行けばこの場所の魅力が分かってもらえるはず。

階段の中腹からでもは日本海が見えました。演歌の歌詞で歌われるような荒波はなく、とても穏やかな海でした。

見たことない構造の建物。きっとお寺の建造物群の一部だと思います。

それにしても外壁がピカピカです。手入れが行き届いているとはなんだかわけが違うようで。

この地域の特徴ともいえる黒塗りの瓦が一面に湾岸に並んでいます。澄んだ波間に沿うようにシックで落ち着いた屋根がなんとも美しい風景です。

どうしてこうも過去の話を持ち出しているのかというと、今年2024年の1月に能登半島地震があったから。あの日皆で高台から眺めた風景がテレビの向こうで崩れているのを眺めながら、ああ、忘れないうちに記録をしておかなければと焦燥に駆られたのです。

恥ずかしながら、写真を眺めている時に柱の文言により初めてその前にもこの地域が罹災していることを知りました。妙に真新しかったあの鳥居は平成になってから建てられたものだったのです。その新しい鳥居も、あまりにショックですぐ目をそらしてしまいましたが――崩れ落ちているのをニュースでチラと見たのもつい先日のことです。

そしてまた関係のない話ではありますが、共に旅行に行った友人達とは私の犯した罪と失敗により今は疎遠になっています。訪れて楽しかったという記憶とそれを保存した写真だけが頭とPCのハードディスクの中に残っているままです。

たかが一人の交友関係の記録とは訳や規模が違いますが。罹災当時及びその後の復興の記録は数あれど、罹災以前のノートというのは中々に見つけにくいものです。誰もそこがそんなことになるなんて思ってもいないのですから。

海へ続く道。変わらぬのは海だけだ、空だけだ、雲だけだ、というのは月並みな言葉ですが写真を見返すことで本当にそうなんだなと感じられます。

しかしあの旅行でレンタカーを止めていなければ今年の1月に被災したというニュースを聞いてもそうなんだ、大変なことだなぁ、で感情が終っていたであろうこともまた事実です。誤解を恐れずに言うならば、あの日あの時あの皆で訪れたからこそ残念だ、まさかあの地域が、と思える感情が出現したともいえるのです。

それでも自分とは関係のないどこか、名前すら初めて聞く場所であるままにならなくてよかったと思えました。

歴史的町並みというには家々の外壁が古めかしい雰囲気ではあるけれども劣化を帯びていないのも、海に面した道路が工事直後のようだったのも今となっては納得できます。きっと罹災した上で修復が為された後の地域だったのでしょう。

休日の午後だというのに我々四人が歩いていたときもすれ違ったのは郵便局前でのおじいさんただ一人だけ。こんなに建物があってこれほど人が少ないわけがない。そればかりは単なる偶然と思いたいものです。

きれいな鳥居が建っていて、道路が真新しかったのは復興に成功したからだと信じてやみません。そして言わずもがな再びのそれも。

流れゆく車窓で撮った風景と月日の中で、失った3人の友人と街並み。私にとってこの場所はもはやテレビの向こうのどこかの場所ではなくなっています。