夏真っ盛りの8月中旬のこと。どこまでも続く青い青い田んぼの中にひときわ目立つ赤い鳥居がてん、てん、てん、と立っています。
正面に立ってみると参道が続く二つの鳥居と、すぐ近くに手水が据えられているものが一つ。まずは手を清めることとします。
残り二つのどちらから進みましょうか。晴れ晴れとした空の下でかなり長い時間眺めて迷っていた気がします。
どちらを行けども同じ本殿にたどり着くことはおそらく違いありません。それでも二択を提示するように並んでいるのには何か理由があるのでしょう。
やっぱり中心の一番大きな鳥居から。大きなつづらを選んでしまうタイプの人間です。
選んで進んでみると思ったより広い空間に出ます。極相林のギャップに似ていますがここは鎮守の社。きっと風雨などで倒れた木々を整理した後なのだと思います。
さらに奥へ奥へ。
幹ではない物たちの密度が徐々に上がってきます。
木々の中に灯籠と鳥居がある風景。
同時に道も入り組んできました。おそらく最初に選ばなかった参道が合流したり、行く先は二股に分かれていたり。
鳥居というものは不思議なもので、普段見慣れていて普通にくぐっているのに、俗世と神域を分ける厳密さは失わないのです。それが参道にずらりと並べば否が応でも「別の場所に来た」という感覚にさせられます。
見通す限り鳥居だらけの場所にたどり着きます。
柱だけ見ていると紅い森のようにも感じますね。参道を見失わないように歩かねばなりません。舗装されているので見失うことなどないのですが、なんだかそういう気分にさせる空気というものが漂っています。
ひっそりとした神社なのに、たくさんの飾り物と灯りの付いたぼんぼりが。木々の薄暗い影も相まってなんだか妖しげな雰囲気が肌を纏います。
本殿以外の社には蝋燭に灯が燈っています。訪れた時がたまたま人が居なかっただけで、ついさっきまで参拝者がいたしるしです。
これだけの灯があるのに誰もいないなんて。なんだか不思議にも思いましたが、その光景に惹かれるように私も一つの蝋燭を手に取り火をつけ供えました。
裏手に回ると朽ちた鳥居の柱が積まれていました。最初に見た開けた空間にはきっとこの鳥居があったことでしょう。木でできた鳥居が朽ちてしまうのは考えれば当然のことですが、何とも寂しく、悲しい気がいたします。何十年、何百年とも続きそうな神社仏閣といえども時の流れや自然の劣化には耐えられないのです。
敷地の端はまた異様な空間。多くの分社が並んでいます。ここまで密集したものは初めて見ました。
打ち捨てられたようにも見えますが、整然と並んでいる。
一つ一つが信仰という名の精神を体現して列を成しているのです。
振り返ると腰の曲がったひとりのおじいさんが参道を歩いてきます。佇まいからして地元の人っぽい。
さっきまでなかったママチャリが置かれております。不意に現れてはもう木々と鳥居の影に隠れて見えない様はさながら人妖のようにも思えます。
明るい陽の当たる場所なのに、枝葉に遮られるだけで妙な雰囲気と感情をもたらします。初めて行った知らない土地の知らない神社ということもあるのかもしれません。
それでも地域に根付いた信仰というものを感じられて少しホッとした気分にさせてくれるのもまた事実。「妖」と「陽」とでもいうような背反するようで似た何かを肌で感じました。
入口まで戻ってみればその先の温度と日差しはまだまだ夏で、それでも越後の稲穂は染まりかけていて。
どういう言葉で表現したらいいか迷わせる風景の下に帰ります。