空と海とのあいだに。

私は海をほとんど見ずにここまで生きてまいりました。
いわゆる海なし県の出身です。海のある都道府県に住む人でも湾岸や島にでも住まない限り、まあそれほど頻繁に海を見る機会などはあまりないでしょうが、当時の私は成人するまでに5本の指を折れるか折れないかほどしか海を見たことがなかったのです。

私の育った地域はすぐ数百メートル先には名もなき丘のような山があり、それでいて生活が不便な田舎ではありませんでした。陽を遮られるから日が暮れるのは恐ろしく早く、春はといえば山はポップカラーな新種のカビが生えたようにもこもこし出す。
夏は黒に近い緑色が一面を覆い、日陰を探してジグザグ道を歩く日々。晩秋ともなれば一気に周囲の彩度が落ちる一方で、花粉の時期には空が黄色くなりました。
 
きっと住んだことのない人からすれば想像もつかない風景でしょうが20年近く、これが日常として感じていた人間がいることもまた事実です。

だからこそこの地に移住してきて1年。毎日のように大量の水の大地を見ていると今まで自分の住んでいた場所が有限に閉じ込められた環境だったか思い知らされます。

ここは初夏になると潮干狩りの家族連れで賑わう場所ですが、潮が満ちているときや狩り場がお休みの日には潮風が静かに吹く中で海が見られます。沖へと向かう無機質な電柱がディストピア感をそことなく想起させてくれるのも結構好きです。

また暇なと休日はその浜辺に出かけて行ってたまに本を読んだり、写真を撮ったり。
 
特に何をするでもなく海を眺めている時もありますが、そういう時は大抵自分の人生や生活について考えふけっているときで、途方もない量の塩水が蠢く姿になんだか自分の見ているものが信じられなくなるような、不思議な気分になってきます。

あの牢獄たる有限の世界にすべてに不満を持っていたわけではありません。(花粉にはかなり不満を持っています)ただ登る道も無く、目の前にあるのに行くことはないオブジェクトとして存在していたあれらは、有り余る土地があるにもかかわらずこの足で行ける範囲を狭めている壁であったと思い知らされています。

 
だからこそ海に惹かれてしまいます。
有限とも思われた景色が輪郭線が無くなるとこうも遠くまで見渡せることに。
日の暮れることのなんと遅いことか。
地面と空の境界がこんなにも曖昧な淡い色になるなんて。
何より頭上がこんなにも広いことを知りました。

こちら側の陸には線を線でつなぐ無用となった設備が列を成して。半島から眺める景色の向こう側には工業地帯と思われる煙突や設備が陸を覆っているのが見えます。

距離にして何十キロか、百何キロか。測量ができない思考の中であの中に人の生活や営みがあることだけは確かでした。

さながら人工島のようで、水平線を覆う巨大な軍艦のようで。天と対を成す地の中間に我々は生きているのだとぼんやり眺めながら思いました。

陽が沈むと急に真っ暗になるわけではなく、段々と灰色の中の黒の部分が占める割合が多くなります。雲の多い日の夜の前はいつだってこんな空模様です。

じきに街灯もない辺りは判別が付かなくなるほど真っ暗になることでしょう。

地というよりかは、元より海。空と海との間で我々は生きております。