傾く日差しと鉄の箱。

一口に廃れるモノといっても種類は様々で、廃墟、廃屋、廃校、廃醫院…かつての用途において細分化が為されているようです。その分類に則るならば廃線というものは私の最も好きな「廃」の一つであります。

山の上につながるケーブルカーが使われなくなった今でも線路と車両とホームが残されているこの施設。保存というにはあまりに杜撰で、放置というにはとてもきれいすぎる微妙な状態で残されています。

窓が何者かの投石によって割られているのが微妙に補修されていたり、塗装自体は新しめなのに剥げかけていたり、使えるのかどうか分からない消火器やライトが置かれていたり。なんとも曖昧な状態が「廃」と呼ぶにははばかられる雰囲気を醸しています。

それでも本来のケーブルカーとしての役割を終えていることを思うと「廃線」「廃車両」としての言葉がしっくりきます。乗客を乗せて動くことはもう二度とないのですから。

車内にほんのり香るカビ臭さ。

線路には木が生え、使われていない年月を思い起こさせます。

あたりは夕暮れに近づき、光の無い車内では手元が暗くなってくる時間でした。

平行感覚を狂わせるケーブルカー特有の斜度。私の故郷にもケーブルカーを有する山がありましたが、その車両もホームで停止している状態と一番坂がキツイところでは、ずいぶん車内の傾きが違ったものだとどうでもいいことを思い出していました。

私が「廃」を訪ねてみる際には生前の状況や歴史、紆余曲折などはあまり調べないようにしています。それらについて調べるのが面倒だという気持ちが半分と事前情報なしに訪れた時の第一印象を楽しみにしている気持ちが半分だからです。

今では山の上まで舗装道路が整備され、排気量の貧弱な私の二輪車でも簡単に登れるようになっていました。運休となるのもむべなるかな、といった気持ちでこの場所をおとずれたのでした。

つまり実際に運休までにどのような経緯があったのかは知らなかったのです。ただ、発着本数や運賃や立地に縛られる鉄道よりは、アスファルトで舗装された道路で自家用車で登る方が遥かに楽だなぁと思っていたことに偽りはありません。

次から次へと各地の路線の廃線が決まる一方、市町村単位で道が補修がされ、日々発展・改修が進む自動車交通網。どちらが便利なのかは明白です。

それでも斜め傾く車体の中でこれらが残されている意味が知りたくて黄昏の座席に腰を掛けていました。



朽ちてなお見らるる廃醫院。

棚の奥にしまわれた新品の手帳がカビていく様より使い込まれ、革が鞣された手帳の方が味があるのと同様に、ただの廃屋よりも何かしらの仕事をしていた廃墟の方が魅力的であります。

ここはかつての産婦人科医院。今は朽ちて荒らされるに任せ、崩壊の一途を辿っています。

生前の仕事ぶりが感じられる残留物。

病室。畳を敷いたベッドが時代を感じさせます。

廊下に日差しが差し込みます。アルミサッシの窓からの日光と比べてずいぶんやわらかい気がするのも廃墟の見せる魔力なのでしょう。

非常に状態がよろしいミシン。

スマホiPhone派です。

分娩室。出産の感動を味わったことのない人生においてはじめての入室は廃墟でした。

数々の母と人の思いがあったことでしょう。残されたものから想像することしかできませんが、逆を言えば想像することができるのです。無くなってしまえばそれすらも叶いません。

今を生きる我々にできるのは先への創造の他には過去の保存と記録だけなのです。それこそが私にできる行動の一つであると思い、自分の訪れた場所を文字として残すこの活動もその一つです。

数多の建築物が壊され、また作り替えられる現代において今もなお残り続けて当時の記憶を伝えてくれるモノたち。その時代を生きなかった者としてその一端に触れられることが嬉しくて悲しくて仕方がありません。

 

踊り場から見える空がとてもきれいな日でした。

 

植物学の父の思いは山の頂点に。

例えば貴方にとって日本一の飲食店はどこですか?と聞かれたら返答に困ることでしょう。そもそも何をもってして日本一なのか。味なのか値段なのか雰囲気なのか。それでも日本一を決めてくださいと言われたら悩んだ末にどこかの店を挙げることでしょう。学生時代お世話になったあの店。至高の一杯を出すラーメン屋。今は無いけれどあの空間が好きだった喫茶店

植物園にも同じことが言えます。日本一何てそうそう決められるものではありません。蘭を見るんだったらあの植物園。広さではあの植物園が一番ですし、庭園の美しさではあの植物園に勝るところはそうそうないなぁ、といった風に。

それでもこの植物園だけはやっぱり日本一なのです。植物分類学の父と言われた牧野富太郎博士の名を冠した植物園です。

正門から入った瞬間にありとあらゆる草にラベルがついています。本当にありとあらゆるなのです。入口からして他の植物園とは別格の風格が漂います。

植物を保存、展示する施設としても申し分ないのですが、それを魅せる施設としても一級品です。常に手入れがされているし、成育が第一に考えられながらも、庭園としてもバランスが取れていて非常に美しい。細部にちりばめられた造園の妙が光ります。

牧野氏の功績をたたえる博物館としても機能しています。それを展示するこの建物も円形のモダンな建築でかっこいい。

氏の生涯はこのブログの片隅に語ることのできるものでは到底ありません。訪れた際は是非彼の志の一端に触れてみてください。

併設カフェ。とてもおしゃれ。散歩がてらの老夫婦や中高年グループ、子連れファミリーでにぎわっております。一人でもそもそカレーを食べているのは私だけです。

小高い山の上に建てられたこの植物園は遠くの街が一望できます。公園としての役割をも果たしているのです。

そしてなんといってもこの温室。

建物と樹木の融合。素晴らしいデザインです。

入口から見上げたところ。植物園の学術的なイメージを払拭させる、まるで美術館にでも来ているかのような演出です。

エントランス。

カーブを描いた屋根がかっこいい。この日はしとしと雨が降っていましたが温室の中では関係ありません。ポカポカ年中暖かいのです。

ガリバナの花手水。

 

植物に囲まれる空間。なんとも非日常な体験です。

趣味として語られるアクアリウムというのは水世界の箱庭を作る、といったものなのでしょうか。アクアリウムをやったことはないですがその箱庭に入ることができたらとても素敵なことでしょう。

地面から見るだけでなく、上からも見学ができるようにしてある温室はいい温室です。

なんてったって葉っぱというのは太陽に向けられたものなのですから。太陽からの視点で楽しまなければ。

上からの視点だけではありません。これはハスの葉が浮かぶ池なのですが

ガラス越しに葉の裏を見ることができるのです。葉が浮かぶ仕組みが知れますね。こういう創意工夫は近年人気を馳せる水族館にも通じるところがあります。

評価基準が多くある中で一番を決めるのはとても難しいことです。それでもここは数ある植物園を見てきた中でも一番だと思いました。

植物を育てているだけでなく、それを魅せて楽しむ施設として。植物分類学の父の彼の名に恥じないと深く深く思ったからです。

 

忘れがたきウミガメの味。

知らない街の知らない道。たまたま通りかかったそんな風景を歩きます。

たまたま、とはいうもののなんだか歴史のありそうな古い町並みが見えたから、というのが本音です。

明らかに現代の家屋の造りとは異なる家々が並んでいます。きっと昔は何かの産業で栄えた土地なのでしょう。

そういうなんでもない歴史ある街並みというのは積極的に保存されない限り、現代的な街並みへと推移していく傾向があります。住んでいる人たちもより便利で、よりモダンで洗練された風景を好むのです。

ここに住んでいない外部者であるからこそこのままの土地であってほしいというわがままな感想を抱くのです。そういう不純な感想を抱いて歩いていました。

津波非難タワーの下に置かれた謎の太鼓。後々その理由が分かりますが、発見した当時は怪訝に思っていました。

なかなかにおっ!っと思わせる建物。見た感じ銭湯か何かかなと予想を立てて近づきました。

へー。世間遺産何て聞いたこともありませんでした。どうやら本来の業務からはとっくに足を洗っているみたい。きれいに保存されている建物の中はどこかの会社のオフィスに改築されたようで、パソコンをたたく女の人の姿が見えました。

例外なく猫に嫌われる私ですが、慣れているのか逃げずに写真を撮らせてくれました。

ここは川から流れ込んだ水が海となる街です。

対岸の波止場で釣りをする地元の方たち。傍に止められたスーパーカブがいい味を出しています。

どんな街にも床屋や美容室はあるものです。市役所や郵便局同様、(生活に必須のものとして)ある種の公共施設的役割を持っているからです。

あてもなくふらついているうちにあたりが暗くなってまいりました。今宵の宿と汗を流す場所を見つけなくては。

田舎の神社だというのにずいぶん車が止まっているモノだと不思議に思いました。

近くの日帰り温泉のロビー。受付の人は居なかったけど数匹の猫がじっとこっちを窺っていました。きっと店番をしているのでしょうね。

温泉を出て海岸を通りかかると多くの人が浜辺の片づけをしていました。

ここはウミガメの産卵の地として有名らしいのです。海洋生物一種のためだけに住民総出で掃除をする…この土地の風土や風習のような何かを感じ取った一瞬でした。

たかが一介の旅人に手伝えることもありません。できることといえば私の訪れた土地はこんな場所だったよ、とあなたに伝えるのみであります。

 

遠くに見える鳥居の立った島が印象的でした。

歩いていると暗くなるのは一瞬です。街灯と信号の光だけが辺りを照らしています。

この町の有名な寺社の門の前にも行きましたがあまりにも遅かったため、手前で躊躇し、帰ってきてしまったのでした。

遠くから見た灯籠の灯りが気になったから来たというのにね。

宿泊地へ帰る途中の道は何やら騒がしい音と声が聞こえてきました。どうやら来るべきお祭りの日に披露する演舞と太鼓の練習をしているみたいです。神社の境内にあった大量の車は集まった彼らの車だったのでした。

よそ者は境内の邪魔にならない場所で、その迫力ある太鼓の音をずっと聞いていました。

町に貼られたポスターを参照すると、祭りが開かれるのは訪れた日の週末。あと数日来るのがずれていたら、お祭りの様子が見れたのにと後悔したものです。

ですがそれもまた旅なのです。そうそう都合よく、地域のお祭りが開催されていることなんてありはしません。祭りに向けた準備が見れて、不思議な高揚感を味わえただけ幸せであります。ウミガメが産卵に来る浜の自然を守り抜く姿勢と、祭りの準備とが入り混じる、よく知らない地域をゆっくりと後にしました。

帰宅してこの町のことを父に話すと、父も原付で旅した際のこの町をよく覚えているというのです。宿舎の隣のプールに亀が泳いでいたなぁと言いました。

旅のたった一日だけ過ごした町とて、印象に残ることがあればいつまでも覚えていられるものです。浜辺での行事や祭りにでも出会えば尚更。そういう意味でウミガメのスープというものは一生忘れられない味となるものなのだと思います。



 

北の軸のその果てに。

北の国の商店街。普段住んでいる場所から見れば、北の果てとも言える土地の、何の変哲もない普通の通りを歩きます。霧のような雨が降っていてカメラのレンズが濡れると思いつつもその雰囲気を楽しみつつ、先に進みます。

車で通ったとしてもどこにでもあるアーケードだと通り過ぎてしまうことでしょう。でも乗り物を降りて歩いてみるからこそ興味深く、思考を巡らさせる面白さが散在しているのです。

大通りから伸びる路地裏。どこの誰かがやってるかもわからないスナックや居酒屋が並んでおります。X軸Y軸、縦横縦横無尽に道が通り、そのすべてに人々の生活が存在してるのだと実感します。

立体のリボンが可愛らしいですね。店の象徴である看板はそれぞれの個性が出ていてじっくり見てみると面白いのです。

看板に限らず、書かれている文字にも。フォントはそれぞれの店の矜持でもある気がしてなりません。

閉店した店とて、蔦に絡まれる建物は趣があります。景観が悪いといって撤去されてしまうのが惜しいくらいです。

歩き疲れてどこかの喫茶店にでも入ろうかと考えていました。古風な商店街にはお似合いの喫茶店が何件も並んでいます。

どれも互いに引けを取らぬ店構え。チェーン店では決してこの味は出せません。

通りの一番端っこに位置するカフェで一休みすることにしました。

理由は店の文字がかわいかったから。それ以上でもそれ以下でもありません。角が立ちつつもくるんとしたデザインに惹かれました。

中は薄暗くも雰囲気は明るく、ほのかに紫煙が香る、いかにも田舎町の喫茶店という感じ。一階は中年の女性たちがおしゃべりをしていたので二階に行きました。

窓から差し込む光の何と柔らかいことか。テントや植物も手伝っています。

初めて来た土地でも落ち着ける喫茶店というのはそれだけでも安心できる材料です。

足の疲れを癒し、外に出ました。さっきまで降っていた小雨は止んでいました。

突如現れるビルの入り口。

チェーン店でないファミレスなんて初めて見ました。閉業しているようですが。

 

思えば、ファミリーレストランの語源を思えばチェーン店である必要はないのです。いつのまにかその名がガストやサイゼの専売特許であるかのように我々が思っているだけだと気づかされます。

あとで勉強になる、とこういう看板を撮っていても大して見もしないでデータとして保管してしまうのは私だけでしょうか?興味がある方は文字まで読んでください。歩いている当時の私は確かにへー、と言っているはずなのですがなにぶん時間が経っているもので、すっかり忘れてしまっています。

商店街一の交差点。四隅に建物が並ぶ風景は中心といった感じですがその活気はお世辞にもあるとは言えません。日本全国こんな商店街ばかりなのでしょう。

ふと見つけた地下へと続く階段。店がありそうでもないし、かといって使われていない階段というわけでもなさそう。何とも不思議なものです。そんな未知なる発見が日々寂れたといわれる商店街を歩かせる動機となるのです。階段の下は、是非あなたが見てきてください。

普段歩く場所だけでは見つからない発見やお店がたくさんありました。自分の行動範囲の軸の端を見てみると面白いことがいっぱいあるのです。

 

ヒールを脱いで深夜登山。

ひっそりと静まり返った石畳と通り。ここは東京でも随一の登山観光地として名をはせています。

休日の昼間ともなれば登山者数日本一のハイキングコースとして有名なこの場所は老若男女の人でごった返します。

しかし夜中ともなれば街灯が煩く光るばかりで人っ子一人見当たりません。日中とのギャップに驚くこと間違いなしです。

昔は近くの小中学校の生徒が校外学習にくるだけの山でした。しかし、今は初心者でも、都会に住む人でも簡単に登れる山として知れ渡り、人気はとどまることを知りません。ヒールでも登れる山なんていう謳い文句さえ。

こうやって、人が多く訪れるようになった風景を眺めながらも、静かだったこの通りを見たかったというわがままな自分も居るのです。だからこうして夜中にやってきたのでした。

近年モダンに作り替えられた最寄り駅。いかにも最近観光地として需要が高まってきた場所の田舎駅という風情です。昔の姿も見ていたはずですが…もうすっかり忘れてしまい思い出すことはできません。

登山口に向かう登り道も左手が白い壁で覆われて工事中でした。きっと数か月後には新たな施設が建設されていることでしょう。

夜中でも爛々とひかる照明の建物。ケーブルカーを運行する施設です。これこそがこの山を日本一の登山者数に押し上げた要因でもあります。普段は夕方で終電が出てしまいますが、夏の間だけは夜遅くまで運航しているのです。

ひっそり静まり返る山の中にしゃべり続ける自販機と運行アナウンス。立てかけられた誰かの虫取り網がこの真夏の霊山に登る需要の根源を示しています。

周辺のお土産屋さんもシャッターが閉まっています。

シャッターが閉まっていること自体珍しくもなんともなくなった時代。昼間に来なければこの閑散とした雰囲気が異様なものであるとは気づかないことでしょう。

ここにおかれている寺社はお寺なのになんで鳥居が残っているのか不思議ではありませんか?明治の神仏分離政策時、ここはお寺を選びました。ですが、その当時の名残として鳥居が残っているからなのです。

昼間は騒がしいメインストリートも今だけは昔の寺社としての静けさを取り戻しています。人さえいなければこうも静謐で厳かなのかとびっくりしたものです。

実は私はこの山の上で夏の間だけ開かれる飲食店にてアルバイトをしていた時期がありました。昔の話です。勤務の度に山をケーブルカーで上がり、アルバイト先に向かっていました。

かつて通っていた私が言うのだから間違いありません。それはこの山はヒールで訪れるにはあまりに無理があるであろうということと、ここの魅力を一番に感じることができるのは人っ子一人通らない、真夜中であるということです。



 

 

燃える石は鉄路と政策に揺られて。

木々が広がる森の中、忘れられたように廃駅跡が残っています。ここはかつて森林資源や石炭を運びたすために建設された路線の開業当初の終着駅でした。

入口はこのあぜ道。

その六角形の看板はこの道が立派な都道府県道であることを示しています。

どう見ても林道にしか見えませんが。

廃線から40年になりますがホームや駅標の枠、上屋、線路が植物に覆われながらも残っています。

昔は駅標も残っていたようですが…今は無くなってしまっています。

訪れたときはしっとり雨が降っていました。廃駅になったホームで雨宿りができるとは。

線路に降りてみます。もう運行されてはいませんから安全ですよ。

かつてはここを石炭を載せた列車が走っていたなんて到底信じられません。それでもそのことを証明するかのように線路が敷かれているのです。

木々はガシリと掴んで離さない。いつかこのホームも土くれと化す日が来るのでしょう。そんなことは自然の道理でないとは分かってはいてもなるべくならばいつまでもこのまま残ってほしいものです。

ちょっと離れた場所には別のホームがありました。すでに樹木の土壌となっています。

辺り一面緑、緑、緑…。採炭が開始されると数百人程度の街も形成されました。今は影も形もありません。

炭鉱の閉山が決まり、森林資源の搬出もトラックに切り替わっていたにもかかわらずこの路線は北へと延伸がされました。

その延伸された終着駅の名は「北進」。計画ではさらに北に進む予定だったそうです。しかし北への未成区間に着工されることはなく、北進までの開通から10年でこの路線は廃止となりました。そこには政治家や国鉄、地元住民など様々な人たちの様々な思いがありました。

廃線ともなれば路線設備は撤去されてしまうことが多いですがここは全線にわたって橋梁が多く残っています。この路線が川に沿って敷かれていることが良くわかります。

地理的にも政治的にも紆余曲折を重ねた路線でした。

廃駅に入る道の入り口には石碑が立っていました。どうやら廃校碑のようです。

 

二十一坪の校舎建設以来

栄華の夢となり

石炭の灯火も古に潰え

先達の思いを馳せ

ここに水上の清き流れに洗われた

白珠の光石を建立す

表側。

幸せを待つ心

この言葉にどんな意味が込められているのか、よそ者の私には決して分かりません。

炭鉱も集落も政治家も今はもうありません。

石炭を揺らし続けてきた鉄路は、全てのしがらみから解放され静かにたたずんでいるばかりです。